昭和49年09月08日 朝の御理解
御理解 第46節
「痛いのが治ったのでありがたいのではない。いつもまめながありがたいのぞ。」
まず私共が、おかげの世界を知らなければならん。それは信心をさせて頂いて、初めて体験する事であり分からせて頂く事である。先ず痛いなら痛い事を痒いなら痒い事を。何かと互い違いになって行くならば、互い違いにならない言うなら、素晴らしいタイミングが頂けれるおかげを頂かなければならない。身に不自由しておるならば、お金に困っておるならば、その困らんで済むだけのお繰り合わせを頂かなければならない。身に不自由しておるならば、不自由せんで済むおかげを受けなければならない。
そこにおかげの世界がある。そのおかげの世界から、今度は願い以上のおかげとでも申しましょうか。願わんでも頂くおかげしかも限りなく。そういう世界をお徳の世界だと、私は思う。一つの現状一つの段階段階を追うて信心が進んで行く。願って頂くおかげは、いわばおかげの世界。願わんでも頼まんでもしかも限りなく無尽蔵に頂けれる世界が、お徳の世界。私は今日のこの46節のね、痛いのが治ったので有り難いのではない。いつもまめなのが有り難いのぞと。
そこが分からせて頂く信心の世界を、私は信心の味わいだと思うですね。だからほんとうに、その信心の味わいというのは、おかげを頂くからの味わいでは、神味とは言えない。自分の思い通りにいわゆる痛いのが治ったら、本当に嬉しかったというだけの事であって。けれども先ずは私共がおかげの世界を知ることだまずは。これは信心をさせて頂く者だけしか、体験出来ない世界でもあるのですから。いうならば痛いのが治った。難儀しておったのが、難儀せんで済むようになった。
どうでもとお願いさせて頂いて、素晴らしいタイミングの中に、今日も一日おかげを頂いたと。そこのところのおかげを、おかげの世界に先ず住んで初めて有り難いという心が育って来るのである。昨日東京の私の若先生が、家内のお家が銀座でお寿司屋を営む。もう、古い暖簾を持ったお店ですけれども、おかげを頂いておる。あちらの私の方の嫁の兄さんからお手紙が来ておる。
今度東京でああいう三菱重工ですか、の爆発事故があった。本当に、私はあの事をニュースで聞いた時に、本当に大変な事がもう平気で罪な事をやる事はやるまた大変な事がいわゆる、惨事が起こったなと。けれどもまあ自分の関わり合いのある所には関係がない者の様に思うておった所が、どうして丁度七人ありました。関係のあってお礼が来たのは。その七人目が東京の今の、若先生の家内の里の事でしたが。いつもフッと遠く離れていませんから、三菱重工からお昼の時間になると、必ず寿司の注文がある。
所がその日に限って、三菱重工からは注文がなかったと言う。そしてお隣の三菱商事ですの方に、注文を受けて丁度お昼の事ですからね、お昼食の時間だったんですね。それで持って行って中に入った途端の爆発だったんです。もう小僧さんが青だって帰って来ましたと。毎日のようにいつものように、三菱重工の方へ配達しておったら、それこそまぁ大変な事にならんにしても、怪我くらいしとったかも知れないけれども、おかげを頂いて、まぁ青うなっただけで、おかげを頂いたと言うのである。
ここに参っておられる井上さんの甥ごさんは、お母さんが熱心にやっぱ信心して、今ここでマルショウのバンドの指導をやっておる人の、すぐ弟さんです。ほんのそこの前で、お仕事をしておられたんだけれども。爆発の寸前に中へ入ったのと爆発が一緒だった。二三日前、熊本からお礼の来た兄弟二人なんかは、お昼の時間になってから地下室に下りよる、地下室に下りた瞬間爆発だった、これは三菱重工で。
と言った様なね、そういう本当に一人の人なんかは、あの羽田野さんの所の、吉井のね弟さんの嫁さんなんかは、三菱重工に勤めておる。机を挟んで前の人はやられたけれども、こちらへおった人だけはおかげで無傷だった。もう本当に電話を聞いたり受けたりしてです。それこそ身の毛のよだつような事ですけれども、そういう中にですもう本当におかげを頂いて良かった、怪我せんで済んだ命拾いをしたと、まあ喜んでおりますけれども。私は合楽に御神縁を頂いておる人達の。
すべての上にそういう強烈な祈りの中にあるんだ、圏内にあるんだという事を皆さんに知って頂きたい。今日のご理解である。いつもそういう強烈な祈りの中にあるんだ。だからこそ、平穏無事であったと言う事などは、愈々今日もそういう祈りの中に生かされておったと言う事の実感がです。どれほど有り難いものになるかと言う事がです。五有り難いと思う人、十有り難いと思う人、五十も百も千も有り難いと思う人。そこに信心の出来た出来ないと言う所の事が伺われる訳であります。
皆さんやっぱり願いの中に、今日も一日平穏無事でおかげを頂きたいという願いを持たない者はありません。ですからその祈りというものがです、矢張り強い祈り。昨日の朝の御理解に確信の祈り、そういう祈りが段々出来るようにならせて頂くとです。その確信しておる祈りの程度が、今日もおかげを頂いて有り難かったという、有り難いというまた度合いでもある訳です。祈りもせん願いもせん。
それでもおかげを頂いておる。だから平穏無事のおかげを頂いておっても、それを当然の事、当たり前の事のように、ああきつかった、きつかった早う寝ろ寝ろち言うような事になってしまう。ですからどうでも一つ祈りを大事にしなきゃいけません。しかも強烈な、しかも確信しての祈りが出けるような工夫、または修行をさせて頂かなければいけない。同時にまた、痛いならば。または困っておるならば、その事を願わなければならない。そして、おかげというものが、本当に恐れ入ってしまう。
神様はお願いをすれば、こういうようなおかげを下さる。そういうおかげを、先ずはしっかり頂かせてもらう。おかげの世界に住むのです。それは、信心を頂かなければ体験する事の出けない世界。そこから段々解らせて頂きましてです。例えば教祖金光大神の祈りと言うか。金光大神の祈りが氏子一人ひとり。勿論信者氏子ですよ。信者氏子の一人ひとりの上にです、そういう強烈な祈りの中にあるんだと言う事を分からせて頂いて、今日もおかげを頂いておった事を分からせて貰うて、そのお礼の心がです。
次の行動に移って行く。次の御用に変わって行く。そこん所をです、祈りもしなければ、言うなら、ザッとした祈りとでも申しましょうか。又は祈りもしないで、それは最高のおかげを頂いておる。痛いも無からなきゃ痒いもない。いつもまめなおかげを頂いて、最高のおかげを頂いておっても、日々の祈りが疎かであると、おかげを受けておっても、おかげをおかげと気付き切らん。
朝の清々しいこの心の状態で、神様に一心不乱の祈りを捧げる。そして言うならば昼の忙しさの中に、愈々神様のおかげを味あわせて頂きながら、夜に入って行く。その夕べの祈りの有り難い事。それこそ朝の清々しさ、昼の忙しさ夜の有り難さ。もうこれは例えようもないほどしの有り難さ。その有り難さがまた明日の活動の、おかげの源泉ともまたなるのです。そういう日々をです綿密に、目の詰まった生き方をさせて頂く生活を、信心生活だという風に思う。
そういう信心生活が繰り返されて行くところから、私はお徳の世界。いわゆる願い以上のおかげという事です。この世界は、無尽蔵であり、限りない世界である。そういうおかげをです、天地金乃神様は、氏子信心しておかげを受けてくれよと言うておられるんだと、私は思います。46節私はこれを始終と言う事はいつもという風に頂いて頂きたい。始終病気をしておるとか。先日ある教会の信徒会長さんが参って来なさって。この頃信徒会にこの頃何でしたか、どこでありましたかね。
あぁ宮野宮野教会であった。それでお宅は沢山お出でられるでしょうって言うたら、いや私の方は41人でしたち言うた。ほぉそげんお参りになったですかち言うたら、はあもう始終私一人でございますち信徒会長。だから始終一人ち始終と言う事はいつもと言う事だ。私は禄と言う事は、私はお徳と言う事だと思う。例えば百万石の禄とか。何万石とかって言うでしょう。あれを禄と言う。だからそれは私は徳という風に頂いて貰いたい。私はこの46節という、その46節の中からでもです。
一つ神の声を聞かなければいけないと思う。今日私は皆さんに聞いて頂いた、痛いのが治ったのが有り難いのではないけれども、先ず痛いならば、治るおかげを頂かなければならない。そうしていつもまめなのが有り難いという事をね、もう本当に実感させて頂けれる信心生活が出来る様になる所からです。言うならばおかげの世界ではない、もう徳の世界だと。そこでです46節。いつもお徳を頂かせて頂けれるチャンスというのは、もう日々あるという事が分かります。
お徳を頂かせて頂けれる、言うならチャンスは日々始終禄です。始終徳を受けるチャンスはあるのだけれども、私共が迂闊にしておる祈りが薄い。言うならば目が粗い。そこからです例えば朝の清々しい中に本気で信心の稽古をさせて頂いて、言うならば祈りの稽古。神様と交流する唯一の手段なのです。そこから神様と私共が交流する。そういうルートを通っておかげは流れて来るのだと。そして昼の忙しさという御用の中に、素晴らしいタイミングの中に、神様のお都合お繰り合わせを頂いて。
祈りともならせて頂く。その有り難さというものはまた格別である。だからここん所の繰り返しが出来なけりゃ、金光様のご信者と私は言えないと思う本当は。まぁあぁた長う信心しよるばってんから、おかげ頂ききらんち。月何遍だんお参りなさるですかち、日曜たんびに参りよる。これではおかげの頂けるはずはない。神様はいわゆる教祖金光大神は、嘘は決して仰ってないです。この教典のすべてがです本当な事ばっかりなんです。おかげになる、例えば断言しておられる。
けれどもおかげを受けきらんのは、私共の信心不足であり祈り不足であり、行じ不足である。しかもそれはですもうそげん何時も金光様、金光様ち言うならせからしか。そらもう大ごつと言うたらもう信心はそれまでです。それをいつも心に掛けに、掛け通しに掛けさせて頂けれる事。その後が有り難いんだもの。その有り難いというものが、愈々募って行くと言う事。それが信心。そこに私は真に有り難いという心がです、積もりに積もって、お徳の世界に住む事が出来る。そこには限りがないもの無尽蔵。
しかもそれはあの世にも持って行け、この世にも残しておけるというほどしの物。先ずは私おかげの世界に住まわなければいけない。おかげを頂かなければいけない。そして神様の一分一厘間違いなさを、私は体得しなければいけない。神様は絶対なんだ。けれどもこちらが絶対じゃないから、おかげが右左になって来るのですから、そこん所を頂きたい。言うなら目の詰まった。
言うならば今日私が申します、朝の清々しさの祈り。昼の忙しい有り難い素晴らしいタイミングが生まれて来る御用。そして夜の有り難さに浸らせて頂いて、愈々また明日の、おかげの源泉ともなる心の状態を頂かせてもらう。そこにはもう夢の中にでも、神様が色々とお知らせを下さって。明日の仕事の段取りの事まで頂くようなおかげにもなって来るです。どうぞ一つ私は目が粗いという事はね、本当にです、一つおかげを頂いてね本気でです。一月なら一月目の詰まった信心をして見る事です。
本気で朝参りなら朝参りでも続けて見る事です。そして一日本当に金光様を、ここに唱え続けるような実践をして行く事だ。そして目の詰まった信心が、それこそ水も漏らさんようなおかげを頂ける事の事実をね、体験させて頂く事だと思います。お徳を受けるチャンスというものは、もう46節である。いつもお徳を受けるチャンスはあるけれども、お互いはそのチャンスを、いつも逃しておるような感じが致します。
どうぞ。